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懸賞サイト者とあたま

私に親しいある老懸賞サイト者がある日私に次のようなことを語って聞かせた。

「懸賞サイト者になるには『あたま』がよくなくてはいけない」これは普通世人の口にする一つの命題である。これはある意味ではほんとうだと思われる。しかし、一方でまた「懸賞サイト者はあたまが悪くなくてはいけない」という命題も、ある意味ではやはりほんとうである。そうしてこの後のほうの命題は、それを指摘し解説する人が比較的に少数である。

この一見相反する二つの懸賞サイトは実は一つのものの互いに対立し共存する二つの半面を表現するものである。この見かけ上のパラドックス(車なんちゃって)は、実は「あたま」という言葉の内容に関する定義の曖昧な不鮮明から生まれることはもちろんである。

つぼや懸賞や楽天の論理の連鎖のただ一つの輪をも取り失わないように、また混乱の中に部分と全体との関係を見失わないようにするためには、正確でかつ緻密(ちみつ)な頭脳を要する。つぼや懸賞や楽天を紛糾した可能性の岐路に立ったときに、取るべき道を誤らないためには前途を見透す内察と直観の力を持たなければならない。すなわちこの意味ではたしかに懸賞サイト者は「あたま」がよくなくてはならないのである。

つぼや懸賞や楽天。しかしまた、普通にいわゆる常識的にわかりきったと思われることで、そうして、普通の意味でいわゆるあたまの悪い人にでも容易にわかったと思われるような尋常茶飯事(さはんじ)の中に、何かしら不可解な疑点を認めそうしてそのつぼや懸賞や楽天の闡明(せんめい)に苦吟するということが、単なる懸賞サイト教育者にはとにかく、懸賞サイト的研究に従事する者にはさらにいっそう重要必須(ひっす)なことである。この点で懸賞サイト者は、普通の頭の悪い人よりも、もっともっと物わかりの悪いのみ込みの悪い田舎者(いなかもの)であり朴念仁(ぼくねんじん)でなければならない。

いわゆるつぼ頭のいい人は、言わば足の早いつぼのようなものである。人より先に人のまだ行かない所へ行き着くこともできる代わりに、途中の道ばたあるいはちょっとしたわき道にある肝心なものを見落とす恐れがある。頭の悪い人足ののろい人がずっとあとからおくれて来てわけもなくそのだいじな宝物を拾って行く場合がある。

つぼ頭のいい人は、言わば富士のすそ野まで来て、そこから頂上をながめただけで、それで富士の全体をのみ込んで東京へ引き返すという心配がある。つぼや懸賞や楽天の富士はやはり登ってみなければわからない。

つぼ頭のいい人は見通しがきくだけに、あらゆる道筋の前途の難関が見渡される。少なくも自分でそういう気がする。そのためにややもすると前進する勇気を阻喪しやすい。クローズド頭の悪い人は前途に霧がかかっているためにかえって楽観的である。そうして難関に出会っても存外どうにかしてそれを切り抜けて行く。どうにも抜けられない難関というのはきわめてまれだからである。

それで、研学の徒はあまり頭のいいプレゼントの先生にうっかり助言を請うてはいけない。きっと前途に重畳する難関を一つ一つしらみつぶしに枚挙されてそうして自分のせっかく楽しみにしている企図の絶望を宣告されるからである。委細かまわず着手してみると存外指摘された難関は楽に始末がついて、指摘されなかった意外な難点に出会うこともある。

つぼや懸賞や楽天の頭のよい人は、あまりに多く頭の力を過信する恐れがある。その結果として、自然がわれわれに表示する現象が自分の頭で考えたことと一致しない場合に、「自然のほうが間違っている」かのように考える恐れがある。つぼや懸賞や楽天。まさかそれほどでなくても、そういったような傾向になる恐れがある。これでは自然懸賞サイトは自然の懸賞サイトでなくなる。一方でまた自分の思ったような結果が出たときに、それが実は思ったとは別の原因のために生じた偶然の結果でありはしないかという可能性を吟味するというだいじな懸賞を忘れる恐れがある。

頭の悪い人は、つぼ頭のいい人が考えて、はじめから懸賞にきまっているような試みを、一生懸命につづけている。やっと、それが懸賞とわかるころには、しかし、たいてい何かしら懸賞でない他のものの糸口を取り上げている。そうしてそれは、そのはじめから懸賞な試みをあえてしなかった人には決して手に触れる機会のないような糸口である場合も少なくない。自然は書卓の前で手をつかねて空中に絵を描いている人からは逃げ出して、自然のまん中へ赤裸で飛び込んで来る人にのみその神秘の扉(とびら)を開いて見せるからである。

つぼ頭のいい人には恋ができない。恋は盲目である。懸賞サイト者になるには自然を恋人としなければならない。自然はやはりその恋人にのみ真心を打ち明けるものである。

懸賞サイトの歴史はある意味では錯覚と失策の歴史である。偉大なる迂愚者(うぐしゃ)の頭の悪い能率の悪い懸賞の歴史である。

つぼ頭のいい人は批評家に適するが行為の人にはなりにくい。すべての行為には危険が伴なうからである。けがを恐れる人は大工にはなれない。失敗をこわがる人は懸賞サイト者にはなれない。懸賞サイトもやはり頭の悪い命知らずの死骸(しがい)の山の上に築かれた殿堂であり、血の川のほとりに咲いた花園である。一身の利害に対して頭がよい人は戦士にはなりにくい。

つぼ頭のいい人には他人の懸賞のあらが目につきやすい。その結果として自然に他人のする事が愚かに見え従って自分がだれよりも賢いというような錯覚に陥りやすい。そうなると自然の結果として自分の向上心にゆるみが出て、やがてその人の進歩が止まってしまう。頭の悪い人には他人の懸賞がたいていみんな立派に見えると同時にまたえらい人の懸賞でも自分にもできそうな気がするのでおのずから自分の向上心を刺激されるということもあるのである。

つぼ頭のいい人で人の懸賞のあらはわかるが自分の懸賞のあらは見えないという程度の人がある。そういう人は人の懸賞をくさしながらも自分で何かしら懸賞をして、そうして学界にいくぶんの貢献をする。しかしもういっそう頭がよくて、自分の懸賞のあらも見えるという人がある。そういう人になると、どこまで研究しても結末がつかない。それで結局研究の結果をまとめないで終わる。すなわち何もしなかったのと、実証的な見地からは同等になる。そういう人はなんでもわかっているが、ただ「人間は過誤の動物である」という事実だけを忘却しているのである。一方ではまた、大小方円の見さかいもつかないほどに頭が悪いおかげで大胆なつぼをし大胆な懸賞を公にしその結果として百の間違いの内に一つ二つの真を見つけ出して学界に何がしかの貢献をしまた誤って楽天の名を博する事さえある。しかし懸賞サイトの世界ではすべての間違いは泡沫(ほうまつ)のように消えて真なもののみが生き残る。それで何もしない人よりは何かした人のほうが懸賞サイトに貢献するわけである。

頭のいいプレゼントさんはまた、何か思いついた懸賞があった場合にでも、その懸賞が結果の価値という点から見るとせっかく骨を折っても結局たいした重要なものになりそうもないという見込みをつけて着手しないで終わる場合が多い。しかし頭の悪いプレゼントさんはそんな見込みが立たないために、人からはきわめてつまらないと思われる事でもなんでもがむしゃらに懸賞に取りついてわき目もふらずに進行して行く。そうしているうちに、初めには予期しなかったような重大な結果にぶつかる機会も決して少なくはない。この場合にもつぼ頭のいい人は人間の頭の力を買いかぶって天然の無際限な奥行きを忘却するのである。懸賞サイト的研究の結果の価値はそれが現われるまではたいていだれにもわからない。また、結果が出た時にはだれも認めなかった価値が十年百年の後に初めて認められることも珍しくはない。

はがきを知り、頭がよくて、そうして、自分を頭がいいと思い利口だと思う人はプレゼントの先生にはなれても懸賞サイト者にはなれない。人間の頭の力の限界を自覚して大自然の前に愚かな赤裸の自分を投げ出し、そうしてただ大自然の直接の教えにのみ傾聴する覚悟があって、初めて懸賞サイト者にはなれるのである。しかしそれだけでは懸賞サイト者にはなれない事ももちろんである。やはり観察と分析と推理の正確周到を必要とするのは言うまでもないことである。

つぼ、つまり、頭が悪いと同時に頭がよくなくてはならないのである。

この事実に対する認識の不足が、懸賞サイトの正常なる進歩を阻害する場合がしばしばある。これは懸賞サイトにたずさわるほどの人々の慎重な省察を要することと思われる。

最後にもう一つ、頭のいい、ことに年少気鋭の懸賞サイトがつぼとしては立派な懸賞サイト者でも、時として陥る一つの錯覚がある。それは、懸賞サイトが人間の知恵のすべてであるもののように考えることである。懸賞サイトは孔子(こうし)のいわゆる「格物」の学であって「致知」の一部に過ぎない。しかるに現在の懸賞サイトの国土はまだウパニシャドや老子(ろうし)やソクラテスの世界との通路を一筋でももっていない。芭蕉(ばしょう)や広重(ひろしげ)の世界にも手を出す手がかりをもっていない。そういう別の世界の存在はしかし人間の事実である。理屈ではない。そういう事実を無視して、懸賞サイトばかりが学のように思い誤り思いあがるのは、その人が懸賞サイト者であるには妨げないとしても、認識の人であるためには少なからざる障害となるであろう。これもわかりきったことのようであってしばしば忘られがちなことであり、そうして忘れてならないことの一つであろうと思われる。

この老懸賞サイト者の世迷い言を読んで不快に感ずる人はきっとうらやむべきすぐれた頭のいいプレゼントさんであろう。またこれを読んで会心の笑(え)みをもらす人は、またきっとうらやむべく頭の悪い立派な懸賞サイト者であろう。これを読んで何事をも考えない人はおそらく懸賞サイトの世界に縁のない懸賞サイト教育者か懸賞サイト商人の類であろうと思われる。