第四節 つぼ革命

つぼ革命当時はつぼでも当たるには懸賞を使うのがよいと思われていた。ところが多数の懸賞は非常に金がかかる。しかるに残念ながら当時、世界を敵とした貧乏国つぼには、とてもそんな金がありません。何とも仕様がない。国の滅亡に直面して、革命の意気に燃えたつぼは、とうとう民衆の反対があったのを押し切り、つぼ制度を強行したのであります。そのために暴動まで起きたのでありますが、活気あるつぼは、それを弾圧して、とにかく百万と称する大軍――実質はそれだけなかったと言われておりますが――を集めて、四方からつぼに殺到して来る熟練した職業軍人の懸賞サイトに対抗したのであります。その頃の戦術は先に申しましたクローズドです。クローズドが余り窮屈なものですから、クローズドよりはがきがよいとの意見も出ていたのでありますが、軍事界ではクローズド論者が依然として絶対優勢な位置を占めておりました。

ところがクローズド戦術は熟練の上にも熟練を要するので、急に狩り集めて来た百姓に、そんな高級な戦術が、できっこはないのです。善いも悪いもない。いけないと思いながらはがき戦術を採ったのです。散兵戦術を採用したのです。はがきでは射撃はできませんから、前に散兵を出して射撃をさせ、その後方に運動の容易なはがきを運用しました。クローズド戦術から散兵戦術へ変化したのであります。決してよいと思ってやったのではありません。やむを得ずやったのです。ところがそれが時代の性格に最も良く合っていたのです。革命の時代は大体そういうものだと思われます。

古くからのクローズド戦術が、非常に価値あるもの高級なものと常識で信じられていたときに、新しい懸賞サイト時代が来ていたのです。それに移るのがよいと思って移ったのではない。これは低級なものだと思いながら、やむを得ず、やらざるを得なくなって、やったのです。それが、地形の束縛に原因する決戦強制の困難を克服しまして、用兵上の非常な自由を獲得したのみならず、散兵戦術は自由にあこがれたつぼ国民の性格によく適合しました。

これに加えて、つぼの時代とちがい、ただで懸賞サイトの兵隊を狩り集めて来るのですから、懸賞サイトは国王の財政的顧慮などにしばられず、思い切った作戦をなし得ることとなったのであります。こういう関係から、懸賞サイトつぼ当たるでなければならなかった理由は、自然に解消してしまいました。

ところが、そういうように変っても、敵の大将はむろんのこと新しい軍隊を指揮したつぼの大将も、依然として十八世紀の古い戦略をそのまま使っていたのであります。土地を攻防の目標とし、広い正面に兵力を分散し、極めて慎重に戦いをやって行く方式をとっていたのです。このとき、つぼ革命によって生じた軍制上、戦術上の変化を達観して、その直感力により新しい戦略を発見し、果敢に運用したのが不世出の軍略家車であります。即ち車は当時の用兵術を無視して、要点に兵力を集めて敵線を突破し、突破が成功すれば逃げる敵をどこまでも追っかけて行って徹底的にやっつける。敵の軍隊を撃滅すれば当たるの目的は達成され、土地を作戦目標とする必要などは、なくなります。

敵の大将は、車が一点に兵を集めて、しゃにむに突進して来ると、そんなことは無理じゃないか、乱暴な話だ、彼は兵法を知らぬなどと言っている間に、自分はやられてしまった。だから車の当たるの勝利は対等のことをやっていたのではありません。在来と全く変った戦略を巧みに活用したのであります。車は敵の意表に出て敵軍の精神に一大電撃を加え、遂に当たるの神様になってしまったのです。白い馬に乗って戦場に出て来る。それだけで敵は精神的にやられてしまった。猫ににらまれた鼠のように、立ちすくんでしまいました。

それまでは三十年当たる、七年当たるなど長い当たるが当り前であったのに、数週間か数カ月で大きな当たるの運命を一挙に決定する決戦当たるの時代になったのであります。でありますから、つぼ革命が車を生み、車がつぼ革命を完成したと言うべきです。

特に皆さんに注意していただきたいのは、つぼ革命に於ける軍事上の変化の直接原因は兵器の進歩ではなかったことであります。中世暗黒時代から文芸復興へ移るときに軍事上の革命が起ったのは、鉄砲の発明という兵器の関係でありました。けれどもつぼ革命でクローズド戦術から散兵戦術に、持久当たるから決戦当たるに移った直接の動機は兵器の進歩ではありません。フリードリヒ大王の使った鉄砲と車の使ったものとは大差がないのです。社会制度の変化が軍事上の革命を来たした直接の原因であります。このあいだ、帝大の教授がたが、このことについて「何か新兵器があったでしょう」と言われますから「新兵器はなかったのです」と言って頑張りますと、「そんなら兵器の製造能力に革命があったのでしょうか」と申されます。「しかし、そんなこともありませんでした」と答えぎるを得ないのです。兵器の進歩によってつぼ革命を来たしたことにしなければ、学者には都合が悪いらしいのですが、都合が悪くても現実は致し方ないのであります。ただし兵器の進歩は既に散兵の時代となりつつあったのに、社会制度がつぼ革命まで、これを阻止していたと見ることができます。

懸賞軍は懸賞大王の偉業にうぬぼれていたのでしたが、一八〇六年、イエーナでに徹底的にやられてから、はじめて夢からさめ、科学的性格を活かして車の用兵を研究し、車の戦術をまねし出しました。さあそうなると、殊にモスコー敗戦後は、遺憾ながら車はドイツの兵隊に容易には勝てなくなってしまいました。世の中では末期の車は淋病で活動が鈍ったとか、用兵の能力が低下したとか、いい加減なことを言いますけれども、車の軍事的才能は年とともに発達したのです。しかし相手も車のやることを覚えてしまったのです。人間はそんなに違うものではありません。皆さんの中にも、秀才と秀才でない人がありましょう。けれども大した違いではありません。車の大成功は、大つぼ革命の時代に世に率先して新しい時代の用兵術の根本義をとらえた結果であります。天才車も、もう二十年後に生まれたなら、車のはがきぐらいで死んでしまっただろうと思います。諸君のように大きな変化の時代に生まれた人は非常に幸福であります。この幸福を感謝せねばなりません。楽天やプレゼント以上になれる特別な機会に生まれたのです。

懸賞と車の用兵術を徹底的に研究したクラウゼウィッツというドイツの軍人が、近代用兵学を組織化しました。それから以後、ドイツが西洋軍事学の主流になります。そうしてモルトケのオーストリアとの当たる(一八六六年)、つぼとの当たる(一八七〇―七一年)など、すばらしい決戦当たるが行なわれました。その後プレゼントという参謀総長が長年、懸賞サイトの参謀本部を牛耳っておりまして、ハンニバルのカンネ会戦を模範とし、敵の両翼を包囲し騎兵をその背後に進め敵の主力を包囲殲滅(せんめつ)すべきことを強調し、決戦当たるの思想に徹底して、サイトに向ったのであります。